Public Enemy

バイオ

1982年 、チャックDのフリースタイルがリック・ルービンに見いだされ、そのときまだ形成期にあったデフ・ジャム所属のグループとしてPEは結成された。

結成から5年後の1987年、デビューアルバム、『YO! BUM ラッシュ・ザ・ショウ』を発表し、好評を博した。さらに1988年、ヒットシングル」Don’t Believe the Hype」を含む2ndアルバム、『パブリック・エナミーII - It Takes a Nation of Millions to Hold Us Back』を発表し、前作より好調なランキングを得た。

彼らはさらに、1990年に3rdアルバム、『ブラック・プラネット - Fear of a Black Planet』をリリース。このアルバムは、2008年現在、彼らのアルバムの中で最も売れたアルバムであり、アメリカ国会図書館の重要保存録音物として永久保存されている。収録されているシングル曲には、救急活動が黒人地区においては白人地区よりも遅く到着することを批判した」911 is a Joke」や、PE自身のことを歌ったと考えられている」Fight the Power」がある。この曲はヒップホップ史上最も人気と影響力のある曲の一つであり、スパイク・リーが監督した映画、『ドゥ・ ザ・ライト・シング』のテーマ曲でもあった。

パブリック・エナミーは様々な面において先駆者だったといえる。例えばターミネーターXは、」Rebel Without A Pause」で聴くことができるように、スクラッチをより洗練されたテクニックに昇華させたし、プロデューサーユニットのThe Bomb Squadは斬新なサンプリングやビートを提示した。批評家のスティーブン・トーマスは「(PEは)プロデューサーチームのthe Bomb Squadを通じてフリー・ジャズやハードファンク、さらにはミュジーク・コンクレートの要素さえも取り込んで、前例のないようなぎっしりとした凶暴なサウンドを作り上げた」と評した。また、ラップの面においても、PEは政治的・社会的あるいは文化的な意識を、巧みで詩的なライムにのせることによってラップの世界を変革した。

PEは世界ツアーを敢行した最初のラップグループでもあり、その結果、ヨーロッパやアジアのヒップホップ・コミュニティーの中で大きな人気と影響力を持つようになった。また、アルバムをMP3フォーマットで(この形式がほとんど知られていなかった頃に)リリースした最初のミュージシャンであり、インターネット経由の音楽配信の可能性を切り開いた。

1991年、パブリック・エナミーはニューヨークのスラッシュメタルバンド、アンスラックスとの競演によって、ハードロックとヒップホップの融合を成功させた。シングル曲」Bring the Noise」は、戦闘的な「ブラックパワー」的歌詞と破砕的なギター、そして時折顔をのぞかせるユーモアが特徴的だ。お互いのリスペクトやチャックDとアンスラックスのリーダーであるスコット・イアンとの間の個人的な友情によって結びつけられたこのコラボレーションによって、ロックファンは当時なじみのなかったヒップホップを知ることになる。また、外見上は全く異なる二つのグループは共同ツアーさえも行った。フレイヴァー・フレイヴがステージで言い放った「奴らはこのツアーが実現することはないだろうと言ったんだ」(アンスラックス のLive: The Island Yearsで聞くことができる)はロック界でもヒップホップ界でも伝説的なものになった。この、当時では考えられなかったコラボレーションがなかったら、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンやリンキン・パークのようなバンドは存在しなかっただろうし、ラップロックやニューメタルのようなジャンルは発達し得なかっただろうと考えられている。

編集者 Kobaian001 (2009年 01月 15日 16:13)

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