バイオ
現在では、組曲『動物の謝肉祭(Le carnaval des animaux)』、交響曲第3番『オルガン付き(Symphonie n° 3 ut mineur op.78, avec orgue)』、交響詩『死の舞踏(Danse macabre)』などが特に有名。
その作風は折衷的、あるいは穏健かつ知的といわれる。
1835年に官吏の家庭に生まれる。モーツァルトと並び称される神童タイプで、2歳でピアノを弾き、3歳で作曲をしたと言われている。また、10歳でバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンたちの作品の演奏会を開き、16歳ではじめての交響曲を書いている。1848年に13歳でパリ音楽院に入学して作曲とオルガンを学ぶ。やがて作曲家兼オルガニストとして活躍。とくにオルガンの即興演奏に素晴らしい腕を見せた彼は1857年に、当時のパリのオルガニストの最高峰といわれたマドレーヌ教会のオルガニストに就任する。1871年にはフランス音楽普及のために、フランク、フォーレらとともにフランス国民音楽協会を設立した。
1921年に旅行先のアルジェリアで亡くなっている。
音楽家として、作曲家、ピアニスト、オルガニストとして活躍したほか、少年のころからさまざまな分野に興味を持ち、その才能を発揮した。一流のレベルとして知られるのは詩、天文学、数学、絵画などである。特に詩人としての活動は多岐にわたり、自作の詩による声楽作品も少なからず存在する。
その博識ゆえの嫌味な性格は人々の良く知るところであり、アルフレッド・コルトーに向かって「へぇ、君程度でピアニストになれるの?」といった話は有名である。これは彼が超一流しか眼中になかったことを示すエピソードでもあった。実際にサン=サーンスが完璧と評した生徒の中にピアニストのレオポルド・ゴドフスキーがいる。
晩年、印象主義音楽の台頭の中で、近代音楽を批判して古典主義、ロマン主義を貫いたこともサン=サーンスの孤立を強めた。このため、楽界の大御所としての世間的な評価は不遇であった。若き日のドビュッシーは、サン=サーンスの典型的な批判者であった。もちろんこのことは、彼とドビュッシーの目指す音楽に、あまりに大きな差があったというのも一つの原因であろう。しかし、ドビュッシーはサン=サーンスのことを「サン=サーンスほどの音楽通は世界広しといえどもいない。」とも評価している。当のサン=サーンスはドビュッシーの交響組曲『春』に対して嬰ヘ長調であることを理由に管弦楽に適さないとして酷評している(ミヨーに至ってはその複調による不協和音の衝突に対し「精神病院行きの代物」と切り捨てている)。しかしながら、『動物の謝肉祭』では和音の平行移動などの印象主義の技法を使っており(「水族館」)、現代音楽の興隆には賛成していたと見られている。当時ですら「楽譜が重箱の隅をつつくようにシステマティックすぎる」書法もドビュッシー以下の若手作曲家の批判の的となっていた。
しかし、サン=サーンスは必ずしも古典音楽に隷属していたわけではなく、むしろロマン主義の枠内で新しい形の音楽を創造しようとした、といえるだろう。もしその出生が30年早ければ、あるいはその死が20年早ければ、紛れもなくフランスにおける大作曲家という全く違う評価がなされたとも言われている(事実、生前は国家プロジェクトとしての音楽家の地位を得ていた)。
そういう意味で、サン=サーンスは歴史の転換点における犠牲者の一人といえる。音楽史におけるサン=サーンスの最も重要な役割は、ロマン主義と現代音楽の過渡期に於いて、その例を提示したことであり、結果として当時のフランスには受け入れられなかった。しかし最近になってようやく、フランス国内でもサン=サーンスの果たした役割を再評価する動きも出始めている。サン=サーンスのピアノ作品全集の出版が開始されたのが2007年であることにもそれが現れている。
編集者 noik27 (2011年 01月 8日 17:32)
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