バイオ
20世紀のブラジル音楽を代表する作曲家である。1950年代後半、ジョアン・ジルベルト、ヴィニシウス・ヂ・モライスなどとともに、ボサノヴァという音楽ジャンルを創生したと言われている。多くのボサノヴァ・アーティストがジョビンの作品を演奏し、音楽的ジャンルを超えて広く影響を及ぼした。
ジョビンの音楽的ルーツは、1930年代から活動していた、ブラジル近代音楽の父とも言うべきピシンギーニャ(Pixinguinha)やブラジル屈指の作曲家、エイトル・ヴィラ=ロボス(Heitor Villa Lobos)(共にショーロの音楽家)の影響を強く受けている。彼にはまたフランスの作曲家クロード・ドビュッシーなどクラシックの音楽家からの影響も大きいと言える。
息子にギタリストのパウロ・ジョビン、孫にピアニストのダニエル・ジョビンがいる。彼らは現在でも「ジョビン・ファミリー」として演奏活動を続けており、来日回数も多い。
リオ・デ・ジャネイロのチジュッカ地区生まれ。14歳の頃からピアノを始め、また作曲を学びはじめる。音楽家として生きていきたいと願っていたが、家族を養うことを考えて建築学校に入学する。しかし、音楽への夢を捨てきれず、ラジオやナイトクラブでのピアノ奏者として働いていたが、ハダメス・ジナタリに見いだされ、コンチネンタル・レコードに入社し、曲の譜面起こしや編曲などの仕事をこなす。1953年にはブラジルのオデオン・レコード(EMI・ブラジル)のアーティスト兼レコーディング・ディレクターとして採用される。また、この頃は特に、幼なじみでもあったニュウトン・メンドンサと共に作曲活動を行っていた。
ジョビンが脚光を浴びるようになったのは、作詞家で詩人の(外交官であり、ジャーナリストでもある)ヴィニシウス・ヂ・モライスが制作した舞台「オルフェウ・ダ・コンセイサォン」(1956年)の(後に、映画「黒いオルフェ」として世界的にヒットする)のために制作した音楽によってであった。この頃からヂ・モライスと共に曲作りを行うようになる。彼らの共作の中には、今でも歌い継がれる曲が数多くある。
1959年には、最初のボサノヴァ・ソングとされる「想いあふれて」(Chega de Saudade)をジョアン・ジルベルトがリリースする。この曲は、サンバ・カンサォンの女王とも呼ばれる歌手エリゼッチ・カルドーゾ(Elizeth Cardoso)のためにつくられた曲であった。ジョアンの画期的なギター奏法(ギターだけでサンバのリズム(バチーダ)を刻む)と、ささやくような歌い方の斬新さに惚れ込んだジョビンが、以前にヂ・モライスと共作した「想いあふれて」をジョアンに提供し、苦労の末レコードのリリースまでこぎ着けた作品であった。次第にこの新しいサウンドは、従来のサンバ・カンサォンの重苦しさに否定的になっていたブラジルの若者たちの心をとらえ、ボサノヴァ・ムーブメントを形成していった。
「想いあふれて」の登場以来、ジョアン・ジルベルトをはじめ、多くのボサノヴァ・アーティストが彼の曲をとりあげている。ヂ・モライスと共作し、ジョアン・ジルベルトとスタン・ゲッツの共作アルバム『ゲッツ/ジルベルト』から人気となった代表曲「イパネマの娘」はビートルズの曲に次いで、カヴァーするアーティストが多いといわれている。ニュウトン・メンドンサとの共作、「ヂザフィナード」 や 「サンバ・ヂ・ウマ・ノタ・ソ(ワン・ノート・サンバ)」も、ボサノヴァ・アーティストたちはもちろん、ジャズ・アーティストたちのカヴァー例も多い、ボサノヴァを代表する作品である。
1965年には自身がヴォーカルをとる作品を初めて発表したが、その後1967年にはフランク・シナトラとの共作を発表し、「イパネマの娘」のデュエットなどで絶大な評価を得る。アメリカにおいても彼の作品は人気を博した。同じく1967年には、名プロデューサー、クリード・テイラーのレーベル、CTIレコードから自身のインストゥルメンタル・アルバム「波(Wave)」を発表した。このアルバムは、クラウス・オガーマンがアレンジを担当したもので、「究極のイージーリスニング・ミュージック」との呼び声もある。さらに「波」に続いて、今度はブラジル出身の名アレンジャー、エウミール・デオダートのアレンジのもと、「潮流(Tide)」、「ストーン・フラワー(Stone Flower)」などインストゥルメンタル作品の名作を次々とアメリカでレコーディングした。これらのCTIでの作品は、ボサノバを基調としたフュージョンと言える。
1970年代に入ると、ジョビンの創作のスピードは落ちるものの、好きな音楽を自由に楽しむというスタイルをさらに固めてゆく。ミウーシャやエリス・レジーナとの共作で自身の歌も披露している。特に、エリス・レジーナとともにデュエットした「三月の水(Águas de Março)」は、ボサノヴァ至上最高のレコーディングと評されることもある人気作となった。その一方、元々ブラジル音楽をこよなく愛し、なおかつクラシック音楽の知識に豊富なジョビンらしく、ボサノヴァの枠にとらわれない壮大で技巧的、なおかつ神秘的な作品を多く残している。この頃の作品としては、「マチータ・ペレ(Matita Pere)」や「ウルブ(Urubu)」などがある。1970年代後半には、アナ・ベアトリス・ロントラと出会い、結婚。1980年には、再び自身のボサノヴァの曲を、英語やポルトガル語を交えて歌ったアルバム「テラ・ブラジリス(Terra Brasilis)」を、クラウス・オガーマンのプロデュースにて制作・発表した。
ヂ・モライスとの共作は「イパネマの娘」が最後であったが、ヂ・モライスの死まで友情は続いた。1980年のヂ・モライスの死後には、家族を中心としたバンド「バンダ・ノヴァ(Banda Nova)」を結成して共に楽曲の製作やライヴを行う。「バンダ・ノヴァ」のメンバーは、息子であるパウロ・ジョビン、娘のエリサベッチ・ジョビン、シモーニ・カイミ、ダニーロ・カイミ、マウーシャ・アヂネ、パウラ・モレンバウムとジャキス・モレンバウムの夫妻、セバスチアォン・ネット、パウロ・ブラーガ、そしてジョビンの再婚後の妻アナであった。このバンダ・ノヴァを通して、「パッサリン(Passarim)」、「トム・ジョビン・イネーヂト(Tom Jobim Inédito)」、そして遺作となった「アントニオ・ブラジレイロ(Antonio Brasileiro)」といったディスクがレコーディングされ、また1986年8月には来日も果たしている。
また、環境問題に対する関心は鋭く、アマゾン熱帯雨林を保護するための活動を行い、同じく熱帯雨林保護の活動を行っていたスティングなどとの交友もあった。その考え方は作品にも強い影響を及ぼしており、」Urubu」や」Matita Pere」などのアルバムでは自然をテーマにした曲も見受けられる。スティングはジョビンの遺作「アントニオ・ブラジレイロ」に収録された「ハウ・インセンシティブ(How Insensitive)」で、ジョビンと共演、ヴォーカルをとっている。
1994年にニューヨークのマウントサイナイ病院で心臓発作のため死去、リオ・デ・ジャネイロのサン・ジョアン・バチスタ墓地に埋葬された。ブラジルでは彼の死に際して大統領令が発され、国民は3日間の喪に服したという。
編集者 noik27 (2012年 02月 7日 20:58)
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